1998年10月26日
ホテルオ−クラにて
「ハル・ライシャワーさんを偲んで」
参議院議員 広中 和歌子
アナクロニズム(時代錯誤)と笑われるかもしれない。しかし、正直なはなし、ミセス・ライシャワーは私にとって近づき難い人であった。元駐日アメリカ大使、高名な学者の令夫人ということもあったが、それ以上に、明治の元勲、公爵松方正義の孫にあたられるというやんごとなき出自が、戦前生れの私には別世界の方に思えたのだ。
はじめてお目にかかったのは、ハーバード大学学長の公邸で、新任教授の夫人達を歓迎するティ・パーティの席であった。ペルシャ絨毯を敷きつめた広々とした食堂の、長い楕円のテーブルの両端に二人の婦人が座り、一方で、紅茶、他方ではコーヒーを注いで下さる、そのホステス役の一人が、写真でしかお目にかかったことのないライシャワー夫人であった。
夫君、ライシャワー氏が五年半にわたる駐日アメリカ大使としての役職を退かれ、古巣ハーバード大学に戻られたばかりの頃で、夫人にとって、学者の妻の役割は、今にして思えば、新米教授の妻の私同様、もの馴れぬものであったに違いないのだが、一人びとりにお茶を注いで下さる夫人の表情は、一糸乱れず整えられた整形と相まってまことにフォーマルな感じであり、日本での大使夫人としての日常を垣間見る思いであった。
ライシャワー夫人と定期的にお目にかかるようになったのは、それから数年後、ハーバード大学のテニスコートで、教授の妻たちで組織するテニス同好会に誘われてからである。年輩の教授の夫人が多く、ライシャワー夫人もそのお一人だったが、そこはアメリカのこと、ご主人がどれほど著名な学者でも、お互いファースト・ネームで呼び合い、ゲームを楽しんだ。ハルさんは正確にボールを打ち返すプレイをなさり、それは地味な控え目な性格を反映しているに違いないと私には感じられた。ところが、夏休みも近いある日、テニス仲間でランチでもしよう、ということになった時、「私の家でどう?」と率先して招いて下さったのがハルさんだった。
ライシャワー家はハーバード大学のあるケンブリッジ市から車で十分ほどのベルモント・カントリー・クラブに隣接する林の中に建っていた。ニューイングランド地方特有の窓が小さい植民地住宅ではなく、気候の温暖なカリフォルニアなどで人気のある、床から天井までガラス張りのコンテンポラリー・スタイルの家であった。
招じ入れらた居間の壁には由緒ありげな掛軸や絵が掛けられ、家具も東洋調で簡素に纏められてあったが、ランチは食堂からそのまま外に出られるバティオでいただくことになった。この地方特産のロブスターのサラダがメインの昼食だったが、調理はもとより、もてなしも一切、ハル夫人御自身による心尽しのものであった。
帰り際、食堂のテーブルの一角に古い背表紙を見せて積まれた沢山の本や書類、それに使い馴れているのであろう、旧式のタイプライターが私の目を惹いた。ご主人が食堂で仕事をなさっているのかと思って伺うと、ハルさんはちょっとはにかまれながら、「私のなの。父方の祖父と母方の祖父を通して家族史を書いているのよ」というお答え。父方の祖父、松方正義は明治の元勲としてよく知られているが、母方の祖父、新井領一郎氏が日米貿易において先駆的役割を果たされたこと、そのため生涯のほとんどをアメリカの地で過し、そして骨を埋められたという事実に私は興味をそそられた。「明治の初期には、祖父達は友達同士英語で手紙を出し合っていたんですよ」という言葉も印象に残った。
当時、一九七O年代、多民族国家アメリカでは、出身のいかんに関わらず誰でもアメリカ人になるという伝統的な「人種のるつぼ」的考え方から、自らの民族的、文化的アイデンティティを大切にする「ルーツ」志向が盛んであった。アレックス・ヘイリーの『ルーツ』がベストセラーになったのをはじめ、多くの個人史が書かれていた時期であったので、当然、夫人の著述もその線に沿ったものだと私は思った。だから、その後、お目にかかる度に、いつ脱稿なさるのかをお尋ねし、出版界の流行が変わらないうちに早くお出しにならなければと秘かに気をもんだのだった。ところが、ハルさんはこの企画を大学を卒業したばかりの若い頃に思いつかれ、少しずつ、着実に研究されていたのであった。御自分をひけらかそうとされないお人柄のため、それほど遠大な計画があろうとは、私など当時知るよしもなかったのである。
とはいえ、私のハルさんへの人間的興味は増し、ある婦人雑誌のインタビューを担当した際には、早速その立場を利用してハル夫人に登場していただき、その生い立ちやお考えなどを伺ったのであった。
それまで、パーティなどでお目にかかる時などお互いに英語で喋っていたのだが、インタビューの時、はじめて日本語でお話をした。ハルさんはいかにも不馴れそうに日本語を使われたが、その日本語が一昔前の女学生が教室で先生に向かって話すような生真面目で丁寧な言い方なのに驚かされた。
ハルさんは日本で生れ育ちながら、小学校の一年間を除いて英国人の家庭教師に英語で教育され、女学校も東京の国際学校に通い、大学はアメリカ留学と、日本的な教育をほとんど受けていられない。
戦前のナショナリズムの強かった日本の国内において、しかも、松方家という日本の中でも最も指導的立場にあった名家の中でそうした教育が行われたことに、私は強い衝撃を受けたのを憶えている。上流階級には下々の者には窺い知れぬ、世間の風潮に左右されない個性的生き方が存在することに興味をそそられたものだ。そんな思いもあって、私は彼女の書かれる家族史を期待をもって待ち望んでいたものである。
そうした私の関心が夫人のも伝わったのであろう。いつの頃からか、本が出来上がったら私に訳してほしい、と口にされるようになった。しかし、私としてはにこにこするだけで、日本的に態度を曖昧に、即答を控えていたのだが、これは単なる遠慮からばかりではなかった。ハルさんの一生をかけての、文字通りのライフ・ワークを訳す責任の重さと、それ以上に、日本の近世から現代にかかわる歴史が英語で書かれ、それが再び日本語に訳される際生じるであろうむずかしさを、私は十二分に知っていたからだった。
しかし、いよいよ脱稿してアメリカの出版社に原稿が渡る頃になると、ハルさんは私に、アメリカに永く住み、二つの文化の間で生活した経験のある者のみが、ハルさんの英語で書かれた文章の行間のニュアンスを分かってくれる、といった意味のことを述べられ、私をその一人と買い被って下さっていることが分かった。
夫人の著述上のよきアドバイザーであったライシャワー氏のお口添えもあり、つい私はこの大役をお引き受けしてしまったのだが、この仕事をお引き受けした後、政治の世界に入ることになり、翻訳は選挙戦の最中、数ページずつ旅先で行ったりした。ハルさんの家族史が、明治維新以後の近代日本の建国に際して、政治、経済、社会の動きに密接にかかわるものであるだけに、新しい分野に踏み出した私にとってはこの上ない学びの体験になったことは幸いであった。
「絹と武士」は文芸春秋から1987年に出版された。ハルさんの「絹と武士」の翻訳出版とライシャワー氏の「ライシャワー自伝」の出版を祝って、パーティが催された。その時、ご夫妻と一緒に撮って頂いた写真が私の国会のオフィスの中に飾ってある。ライシャワー氏の隣で晴れやかに微笑むハルさんの表情はライフワークを仕上げられた喜びと自信に満ちている。エドウィン・ライシャワー氏のもはや影の存在ではないことを如実に示すかのように。
心からハルさんのご冥福を祈り上げます。