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【日比NGOシンポジウムと本のODA】 NGOアジアコミュニティセンター21の代表で立教大学教授の伊藤道雄氏から、フィリピンと日本のNGO会議を東京で開催するので基調講演をしてほしいと頼まれた。 伊藤代表はカルフォルニア大学に留学、大学院卒業後は国際協力活動に身を投じ、日本のNGOを束ねてその成長に貢献してこられた、いわばボランティアの草分け的な方である。その足元にも及ばない私ではあるが、かねてからボランティア活動に関心をもち、日本におけるボランティアの育成を願って「ボランティア基本法案」を議員立法で国会に提出したこともある。その経験なども思い出しながら、政治の立場から私がボランティア活動にどうかかわり、また、国の開発援助、ODAのあり方について発言し、活動してきたかをお話しすることにした。フィリピン側からは24人のNGOが来日、参加した。 私が政治の世界に入ったのは1986年、東西冷戦の雪解けが始まった頃、当時の日本の経済成長には目を見張るものがあった。21世紀は「日本の世紀」と言われる反面、貿易摩擦も大きくなっていた。そうした外圧を取り除くためにも日本の途上国への支援は大切だったが、援助の額は大きいものの、大型インフラ中心で、現地の貧しい庶民には無縁だと批判されていた。日本の支援は相手国の要請に基づくものだという政府の言い訳は「結局は日本企業が事業を受注し、地元企業は潤わない」とか「self-serving」つまり「自分達のための支援」だというのが日本のODAへの批判だった。 私は外国のODAについて学ぶためカナダの国際開発援助庁CIDAと米国国際開発庁US AIDを訪れ、その援助のかなりの部分がNGOを通して実施されていることに驚かされたものだ。 次いでブラジルのアマゾンの奥地マナウスを訪れた時、火事や洪水などの災害に現地の公館ではどう対応しているのか、「火事場の見舞金」のような支援が必要ではないか、とマナウスの日本総領事に伺った。「必要性はあるがそうした制度はない」とのお話だった。 帰国後、早速外務委員会で小規模支援の必要性を訴え、そこから我が国の「草の根無償」支援がはじまった。 最初は一億円から、やがて150億円にまで達したが、最近は120億円前後で推移している。 1989年ベルリンの壁は崩壊したが、冷戦後の世界は決して平和ではなく新たな課題が生まれていた。地域紛争、テロ、麻薬、感染症に加えて地球環境問題など、政府の援助への対応も変わってきた。これまでの要請ベースを改め、まず相手国の軍事支出に注目、民主主義と人権への配慮、教育と人材育成、環境重視、そして良い統治を行なっている国に優先的に支援を行うというように改革された。 しかし、1990年代後半、日本の経済は下り坂となり、ODAの縮小を余儀なくされる中、より効率の高いODAが求められるようになった。人間の安全保障という視点での平和構築、感染症、女性の権利と健康、そして途上国の自立支援などが強調され、きめ細かな支援のためにはNGOの参加は欠かせないという認識が少しずつ高まってきた。 アメリカやEUは国際援助を増額し、そのかなりの部分がNGO、NPOを通じて、顔の見える援助となっている中、日本の海外支援は量から質への転換が必要であり、特に援助国と受け入れ国の市民参加が欠かせない。そうした参加型ODAによって、援助を必要としている人たちに支援が直結するようなきめ細かな活動ができ、他方支援国のNGOは受け入れ側との連携によって効率の高い支援で人間の心を伝えることができるからである。 2006年わが国のフィリピンへのODAは円借款約85億円、無償資金協力金約10億円、技術協力約48億円。総額はアメリカを大きく引き離しているものの、うちNGOを通じては「日本NGO支援無償資金協力」が2900万円、「草の根・人間安全保障無償資金協力」が1600万円に過ぎない。 更に望ましいのはODA資金の使途について、計画段階からNGOが参加すれば、ODAの質は更に向上し、援助側、受け入れ側共に評価が高くなると私は思う。 フィリピンでは市民活動の歴史が長く、その分野で多くの経験と実績をもっている。日本のNGOが共に働くことで学べることも多いと思うし、フィリピン側でも日本の戦後の農地改革等の民主化への一連の動きから大いに学んで欲しい、ということを最後に付け加えて私は話を終えた。 |