広中和歌子FaxNews第3号(2000年5月1日)
参議院補欠選挙の応援で熊本県に出かけ、はからずも川辺川ダムの建設に反対する市民団体と話し合い、その翌日は水俣を訪れる機会を得た。
川辺川ダムは33年前に計画されたものの五木村など近隣住民や漁民の反対などで未だに着工されていない。大洪水の起こる可能性、利水など当初の目的が疑問視されているにもかかわらず、建設省はその方針を変えていない。それどころか既に1000億を越える国の税金が使われ、更にそれとほぼ同額が完成までに今後必要とされる。
多くの環境団体がクマタカの生息に決定的な影響があると指摘し、環境アセスを求めているが、このダムが「環境影響評価法」施工前に計画されたということで、アセスの対象から除外されている。一旦決めたら絶対に変えない、誤りを認めない、責任をとらない官僚体質はここでも明らかである。賛成派は東京に陳情攻勢をかける資金があるが、反対派にはそうする経済的ゆとりはない。川辺川の本流である球麿川には多くの支流があり、それぞれにダムができているが、その結果、河口周辺の海でいかに多くの魚貝類や海藻類が失われてきたかを語る漁民の声は切々と心を打つ。
水俣にて…
美しい不知火湾がメチル水銀で汚染され、魚貝類を食べた多くの人や動物が狂い死にしたり、神経系統の異常で身体的障害を負っているという水俣問題については、1960年代にアメリカに住んでいた頃から聞き及んでいた。
だから帰国後、1986年に政治の世界に入り、環境特別委員会に所属した時、水俣問題はすでに過去の問題となり関係者間で何らかの解決がなされたものと思っていた。しかし、現実には被害者の認定をめぐる争いや訴訟、補償をめぐる加害者企業チッソへの国の対応は、環境庁に重くのしかかっている大きな問題であった。私が1993年環境庁長官に任命され、細川内閣で政治的解決に向けて努力したものの、残念ながら時間切れで果たせなかった。従って、それに続く村山内閣で国と被害者団体との間で和解が成立したことに、私は素直にほっとした気分であった。
その後、水俣を訪れたいと思いつつ果たせなかったが、今回、参議院補選の応援で熊本に入った折、水俣に足を伸ばすことができた。国立水俣病総合研究センターや資料館などを訪れ、改めて被害の激甚さに驚かされたが、同時にメチル水銀の被害が現れた段階で素早い対応がとられず、いわゆる水俣病とチッソの工場排水との因果関係が国によって認められるのに十年もの歳月がかかったことに、改めて強烈な憤りを憶えざるを得なかった。また、チッソに働く人々とその家族が、被害者の立場に立って水俣病の解決のために動かなかった企業城下町の限界を見せつけられる思いであった。広島の原爆資料館が第二次大戦の核がもたらした悲劇の象徴であるなら、水俣資料館はまさに戦後の過度な経済優先のもたらした悲劇である。
多くの人が被った苦痛と死に至る健康被害はまさに人権問題であり、早期解決に向けてとるべき対応をしなかった国の不作為の罪は重い。ここでも縦割り行政と官僚主導の無責任性を強く実感させられた。