人口問題協議会 掲載
「私の原点―アジアの旅」
参議院議員 広中和歌子
2005年2月
【はじめに】
長い海外生活を終え、日本に帰ってから約25年間、これまでフィリピンを始めアジアの国々を毎年のように訪れている。都会だけでなく一週間から十日間かけ、じっくり田舎も見てまわる。
都市には貧しさ、混沌とした下町の独特の臭い、物乞い、車やバイクの騒音、それに 衛生上の問題もある。田舎には水、電気、医療施設、学校など人間にとって基本的な ニーズが不足している。しかし、そこには貧しくても自然と共生する人々の暮らしがあった。
海外旅行ならヨーロッパやアメリカ、オーストラリアやニュージーランドなど西欧文化に惹かれる日本人は多い。あるいはアジアでも、西側スタンダードの行き届いたリゾートを好む人がほとんどだ。そんな中、敢えて貧しい国々の更に貧しい田舎を見てまわる人の気が知れない、と私に直接言う人もある。
しかし、私にとってアジアは身内であり、原点でもあるのだ。ほっとし、親しみを感じる人々がいる。言葉こそ違うが、彼らは日本人と同じ顔立ちをしている。日本人の祖先の多くが中国、韓国はもとより南の国々からやってきたに違いないと思わせる。彼らは それぞれのおかれた立場でひたむきに生きている。貧しければ貧しいなりに額に汗し、 工夫をこらし、勤勉に働いている。
子沢山の中で母親は自らの身体をけずって子供に乳をやり、家族のために水を汲み、 畑を耕し、食事の支度をする。かつて私が子供の頃、経験した戦中戦後の日本の暮らしがそこにある。
戦後まだ日本が経済復興の途上にあった1958年、私は一留学生としてアメリカに渡った。現地で結婚、主婦として約20年間アメリカ各地で生活した。ヨーロッパの国々も度々訪れ、フランスには約半年ずつ二度滞在している。夫と二人の子供の世話をする 専業主婦の暮らしであったが、私は家事の合間をぬってはその土地の大学に通った。 興味は主として文化人類学、歴史など、要するに人々の暮らしに関心があったのだ。
【アジアの旅フィリピンへ】
1980年のはじめ日本に戻ると、今度はアジアを見てみたいと思った。最初に訪れたのはフィリピン。戦友の遺骨収集に行くというグループに誘われたからだ。スペインと アメリカの植民地時代の影響を色濃く残すフィリピンは、率直に言って文明と未開が共存しているというのが感想だった。大都市マニラ。排ガスと騒音をまき散らしながら ジープニーが走る市街地には高級ホテルや近代的なデパートが立ち並び、あらゆる西欧の便利さが手に入る。しかし、一歩中心街を出るとスラムが広がり、路上生活者がある。
私達一行がかつて戦場であったバギオに行くため、早朝ホテルからタクシーでバスの 発着所に着くと、そこは路上生活者達の寝場所になっていた。程なく駅員がホーキをもって彼らを起こしにやって来る。彼らは立ち退き、周辺はきれいに掃き清められ、乗客を 迎え入れる準備が整うといった次第。
バスに乗り数時間走った後、山道に入るところでバスからジープに乗り換える。時々 深い水たまりのわだちにタイヤがはまって動けない。乗客は降ろされ、そのために特別に雇われジープの外枠につかまっていた二人の“押し屋さん”が車をぬかるみから押し出すし、旅は続く。
かつての激戦地にはところどころに人ひとりがようやく入れるほどのたこつぼ型の穴がある。周辺は一面草に覆われて美しい。“つわものどもの夢のあと”という句を思い出したが、私としては日本兵が戦ったのは密林ジャングルだと想像していたので不可解だった。戦後フィリピンからラワン材が大量に日本に輸出されたと聞いていたが、恐らくその一部がこの山からのものかも知れない。こうした草しか生えていない山々に豪雨が降るとどんな災害が起るかを考えると胸が痛む。
かつて日本人が大勢玉砕したこの地域には慰霊塔が建てられ、フィリピン人の村人が
手入れをしてくれている。日本の遺骨収集団も地元に小学校を寄付したり、子供達に奨学金を出したりして貢献している。
【改革解放前の中国へ】
フィリピン訪問後、夫と共にインド、中国、台湾、シンガポール、インドネシアなどを訪問した。観光が主な旅行はそれなりに興味深いが、フィリピンを訪れた時のような衝撃はなかった。例外は中国の武漢訪問の時で、文化大革命の爪あとが色濃く残る1970年のはじめ、経済自由化前の中国では道路幅は飛行機が不時着できるほど広いのに、走る車はバス以外にはほとんどなく、マーケットは存在しても品物は少なく、質は悪いといった状態だった。私達の泊ったホテルは建設されたばかりの高層の近代建築だったが、ホテルの前から一歩小路に入るとそこには庶民の生活があり、道端で粉炭から豆炭をつくる人、綿を打つ人など、戦争中の日本の暮らしが思い出されて妙に懐かしくなった。あれから かれこれ25年。改革解放後の現在の武漢は恐らくすさまじい様変わりをしていることだろう。
【政治の世界へ】
私が政治の世界に入ったのは1986年。その頃から私はさらに積極的にアジアで開催される会議や視察に参加した。国際人口問題議員懇談会((JPFP)では、インドネシアやインドを、環境や女性がテーマの国際会議ではフィリピンやタイなどを訪れている。
そうした中、NPO2050の代表北谷勝秀氏との出会いがあった。国連を引退された氏は「2050」(にせんごじゅう)というNPOを立ち上げ、途上国の中でも最も貧しい国々に焦点を当てて人口問題、麻薬、エイズ、売春等、貧困から派生する諸問題に取り組んでおられる。2000人を超える会員達を対象にアジアの貧しい国々を理解して欲しいと視察のプログラムを組み、現地でも国連機関と連携しながらさまざまなプロジェクトを提供しておられる。国会議員にも最貧国の現状を知り、国際支援活動に理解を示して欲しいということで、毎年、年明け早々、議員数名と北谷代表2050の事務局長、櫻井女史、ジャーナリスト代表が約8日間の旅に出ている。これまで、ベトナムを振り出しにカンボジア、ネパール、ミャンマー、ラオスを訪れた。
【2000年 ベトナムを訪問】
ホーチミン市で最初に訪れたのはトウーズー病院。ここでベトちゃん、ドクちゃんの 担当医として日本でも知られている病院長のフォン先生にお会いした。この国ではベトナム戦争で使われた枯葉剤の影響でいかに異常出産のケースが多いか、それを避けるため 妊産婦への超音波診察装置がぜひ必要だが、なかなか資金が集まらないと話しておられた。日本で切り離し手術が成功した双生児の一人ドクちゃんはすでに18歳になり、足が不自由ながらパソコンで病院の経理の手伝いをするなど立派に成長している。しかし、 ベトちゃんには脳障害が残り、自分では何もできない、呼吸をするぬいぐるみの人形のよう。その後亡くなったと聞いている。
ベトナムではホーチミン市を振り出しにマイクロバスで北に上り、ダナン、フェ、 ブイン、ハノイなど一週間かけて視察した。その間、エイズ対策委員会や孤児院を訪問。また、母子保健、家族計画のための「リプロダクティブ・ヘルス プロジェクト」の現状について元青年海外協力隊で働いていた助産師の渡辺一代さんやジョイセフ(家族計画 国際協力財団)の勝部まゆみさん達から話を伺った。厳しい現実の中で生き生きと働く 二人の日本女性の貢献には頭が下がった。それと共にさまざまな形で執行される日本の ODAがいかに必要で、現地で感謝されているかを理解する事ができた。
帰国後はベトナムのエイズ対策や人口問題、公衆衛生の現状を外務省に報告し、それによって、上記超音波診察装置とエイズ予防のためのコンドーム緊急支援が実現した。
ベトナムにおいては人口政策がうまくいっていて出生率は89年の3.8%から97年には2.7%に低下している。
その理由として、ベトナム女性連合の家族福祉局長は、避妊器具の選択の枠を広げたことだと指摘。特にコンドームの使用が東南アジアで二番目に高いと言っていた。しかし、それ以上にベトナムの相続制度がかかわっているのではないだろうか。
社会主義国ベトナムでは遺産相続が男女均等で、農地の相続も例外ではない。となると 子沢山では土地が細分化されてしまう。そんなことが理由となって、出産制限が自主的に行われているのではないだろうか。
概してベトナムの人たちは勤勉で、自分たちで生活向上努力や開発活動に従事する傾向が強い。この国で人々の自立を支援するのはODAの有効な使い方であると思う。
【2001年 ネパール訪問】
壮麗なヒマラヤ山脈を背景とするネパールは、一度は訪れてみたい国だった。
しかし、最近は大気汚染で首都カトマンズからヒマラヤの山々が見えない日もあるという。NGO 2050から2001年の訪問地としてネパールを提案され、期待に胸はずむ。 かつて太古、カトマンズ周辺は海底に沈んでいた。最近まで海抜の低い地域は湿気や マラリヤ蚊にやられるということもあり、居住に適さない。従って人々は高地に住み、 山の斜面を耕して暮らしてきた。
しかし、近年マラリヤ蚊が駆除され、人々が低地にも住めるようになって、カトマンズは都市として急速に発展している。それに伴い環境汚染も広がっているのだという。
視察としてカトマンズを中心に車で山岳地帯の農村へと出かけ、ジョイセフやJICA(国際協力事業団)のかかわる家庭保健センターや小児病院、村落振興、森林保全などのプロジェクトを見てまわった。その間、山岳地帯の農業や人々の暮らしに触れたが、いざ出産、病気といった緊急の場合どのように手当てされ、診療所に運ばれるのだろうか。道路、水、電気など基礎的インフラを欠き、朝晩寒暖の差の大きいこの土地での生活はどんなにか厳しいことだろう。この国は女性の平均寿命は男性より短く、女性が重労働に従事し、運命は女性により厳しい。この国は後発開発途上国、国民の大半は山肌を削って自給自足の生活を強いられてる。雨期になると(6月〜10月)、崖崩れで村々は孤立する。現金収入がなく、市場へのアクセスがなくなるので、食糧の備蓄がなければ生命の維持も難しくなる。この国の貧困対策はインフラ整備、植林、女性の地位向上からといっても言い過ぎではない。
ネパールはお釈迦様の生まれた土地でもあり、文化的にはインドの影響を強く受けているが、あるネパール人はインドと自国を比較して、ネパールはインドのようにイギリスによる植民地支配の経験がなく、従って行政組織、教育などの文化面も含め、さまざまな社会インフラが整備されていない、と嘆いていた。自らの国を、自らの力で作り上げていくには、あまりにも問題が多く、無力感を感じてしまうのか。しかしながら、日本のODAによってインフラ整備と人間の安全保障を心がければ将来は明るいものとなるだろう。特に草の根でネパールの人たちに希望を与えている日本人のボランティアが数多くいることは心強い限りである。その一人、垣見一雅さんは山村をまわって村人たちの自立支援をしている。自分の意見は押しつけず村人達の“やる気”を引き出している。
私達の訪問後、ネパール王宮内で王族が殺害されるという事件があり、その後新王の 下で政情は安定していないようだ。
【2002年 カンボジア訪問】
カンボジアでは主として首都プノンペンと世界遺産アンコールワットのあるシュムリアプ市を中心に視察を行った。
長期にわたるカンボジア内戦で、その後も多くの問題を抱えるこの国には、世界各国のボランティアが支援活動を行っている。
日本も例外ではなく、エイズ患者を身心共に支える飯塚眞理子さん。シーディング・ホープというキルトセンターではエイズ患者を集め、キルト製作を指導しつつ、彼らの人生末期を物心両面で支えている。そのリーダー飯塚さんにお目にかかった。御主人がJICAの職員で、イギリス人の始めたこの施設を手伝ううちに、自ら責任者として引き受けることになったという。
ここで美しいキルトを作る人達も一年ぐらいで体力がつきて亡くなっていくという。 そうした末期患者のためには近くにホスピスが用意されているが、ホスピスとは名ばかりでハンモッックに横たわる彼らにほどこすすべはない。
売春婦を集めてエイズ対策として性教育をしているフランス人女性にも出会った。湿地帯、河沿いのバラックが売春宿で、その一つに集まった女性達にコンドームの着用を怠るとどんなことになるのか、寸劇を通して教えていた。
この国も極端に貧しく、多くの農村女性が性産業に従事することを余儀なくされている。代償はわずかな収入とエイズである。内戦で動員された兵士や警察官がエイズを広め、国民病となってしまった。しかし、官民をあげてのエイズ対象により、エイズ感染率を下げることに成功した数少ない国の一つでもある。
ストリートチルドレンを救済するフレンズというボランティア団体もフランス人に よるもの。約200人を収容する施設があるが、そこでは子供たちが社会復帰できるよう、職業訓練を行っている。フレンズは活発な活動を展開している国際NGOであるが、自己資金の涸渇と海外からの援助資金の先細りが将来に暗い影を投げかけていた。
カンボジア・トラストというイギリスのNGOでは義手義足を作る工場を運営している。そこには藤井さんという日本人も働いていたのでじっくり話を聞くことができた。彼によると義足を必要とするのは地雷で手足を失った人達だけではなく、ポリオを患った結果、足を失った人も数多くいるという。ポリオの予防注射という、多くの国の子供たちが 当たり前のように受けている医療は、長い内戦の間カンボジアでは望むべくもなかったのだ。
アンコール小児病院では日本人のモーガン三恵子さんにお目にかかった。もともと ボランティアとしてこの地に入り、今は院長をしている御主人と共に看護婦をとして働いているという。この病院には日本から寄付された医療機器や車などがあり、とても感謝されていた。日本が人材の点でも資金面でも様々な形でカンボジアの再建に貢献していることは嬉しいし、そうした活動にたずさわる人達に心から敬意と感謝を捧げたい。カンボジアといえば地雷で命を落とす人、手足を失う人が今だに多いことで知られているが、 アンコール周辺の地雷除去の現場にも出掛けた。約400万から600万の地雷が埋まっているといわれ、1992年以降約5万人が死傷しているということだ。地雷を作る費用は一個につき100円から200円、しかし、それをれを除去するコストは莫大である。
ここでも日本からの地雷探知機、駆除機が活躍している。
【2003年 ミャンマーへ】
NPO2050による国会議員の視察の旅の4回目はミャンマーと決まった。仏教国ミャンマーにはすばらしい歴史と仏教遺産があり人々の気質は優しいという。今回の参加者は女性議員ばかり4名、川橋幸子、大渕絹子、田嶋陽子に私。
国民選挙で勝利したアウンサウンスーチー女史に政権を譲らず、軍事政権が彼女を不当に自宅軟禁しているということで、国際社会のミャンマー政権に対する風当たりは厳しい。 国連機関の支援も限定的だという。日本はその例外で、一貫して基礎的人道支援を行っている。ただ、日本に支援を打ち切るようにという西欧諸国の圧力はかなりのものであるようだ。
第二次大戦後のミャンマーは、敗戦で打ちひしがれていた日本に食糧支援をしてくれる程、豊かな農業国であった。しかし長い間、軍事独裁政権下、鎖国に近い状況を続けた 結果、経済は停滞し、イギリスの植民地時代に造られたヤンゴン市の都市インフラも手入不足ですっかりみすぼらしくなっている。一時期、市場解放や国有産業の民営化に伴って流入した外国資本も徐々に引き上げ、経済活動は低迷している。
ミャンマーでも孤児院や保健所、水上生活者や山の中の過疎の村々を訪れ、日本の政府やNGOの支援の実情を視察した。
どこに行っても人々がフレンドリーなこと、特に田嶋議員や、大渕議員が子供達を 相手にじゃんけんゲームなどを始めたりすると彼らはすぐに打ちとける。一般に対日感情は良い。
雨露をしのぐだけの教室で熱心に学ぶ子供達。日本からの支援を素直に喜んでくれる 女性達、特に簡易水道のプロジェクトのおかげで、それまで1日数時間水汲みにとられていた時間を学校に通って勉強できると喜んでいる女の子達、学童疎開のころの自分を思い出した。
この国の国民も貧しい。国際機関や各支援団体は草の根レベルでの保健や貧困撲滅の仕事に従事しているが、中でも国連開発計画、ジャイカ、及び日本のNGOが取り組んでいるプロジェクトは非常な効果をあげている。特に現場で黙々と仕事としている人たちには頭が下がる。ミャンマーでは保健大臣や国家平和開発評議会議長府大臣など政府要人とも面会したが、スーチー女史にはどうしてもお目にかかりたかった。
幸い自宅軟禁が解かれた時期でアポがとれた。国民民主連盟の事務所をお訪ねすると 支援者が大勢事務所を取り囲んでいた。
化粧をしなくても美しいスーチーさんは、毅然とした態度で話をする。「外国の支援は 軍事政権に利するだけなので必要ない。民主化の妨げだ」ときっぱり。
「外国との貿易や外国人の観光もミャンマーの人々の利益につながりません」と言う。国が開かれることで軍事政権の力が弱まり、民主化の流れが生まれるのではないですか、と申し上げたが「私の望むことはミャンマーの人達が自からの力で立つことが出来る、そういう国なのです」と一切の妥協を受け付けない。
1989年の総選挙の結果を無視して座り込む軍部、既得権の上にあぐらをかく軍事政権、妥協を受けつけないスーチーさん。政治的な解決は直ぐにはない。その間、困窮を極めるのは国民である。日本政府の強力な仲介によって政治的な解決が計られればと思う。
貧しい国ミャンマー。しかし第二次世界大戦後、独立をかち得て以来この国は民族紛争はあっても戦争に巻き込まれていない。長い軍事独裁政権の下で経済は疲弊(ひへい)していても、5000万の国民の 七割以上が農村に住み、自然と共生しつつ暮らしている。なんとなくほっとする国である。
【2005年 ラオス訪問】
ラオスの国土は我が国の本州の広さに等しいが、人口はたったの553万人。その内ラオ族は60パーセント、残りの40パーセントは文化、言語を異にする49の少数民族。住民の80パーセントが農業に従事し、生活は貧しい。
特に私たちが訪れた南部では、村に電気も電話も水へのアクセスもないところが多い。道路も一部を除いては舗装されていない。トイレのない家庭が多く、裏庭や野原で 用を足している。
乾期には汚物が風と共に飛散し、雨季には水を汚染する。死亡率が高く、その大きな原因の1つは赤痢のような消化器系の病気である。
1日の多くの時間を女性や子供は水汲みにとられ、小学校5年生で約半数が学校に 行くのを停める。6歳から14歳の子供たちの3分の1が学校に通っていない。
地域に診療所は存在するが、充分に活用されているようにはみえない。交通アクセスが悪く、医療関係者も薬品も不足しているからである。すべて貧困が原因である。
こうした厳しい現実を人々が黙々と受け入れているのは、情報量が少なく教育レベルも低いからなのか。この国には工業がない。国民のほとんどは農林業に従事し、現金収入が少ない。税収も期待できない。そのため、開発は外国からの支援頼みということになる。日本は第一の援助国でインフラ整備から教育、基礎保健に至るまで幅広い支援を行い、非常に感謝されている。
もっと国民にエネルギーを与えるヴィジョン、人々や地域がイニシアティブを発揮できる政治、少しづつ生活が良くなっているという実感を与える政策が必要だが、 1975年、ベトナム戦争後に王政を倒して樹立されたラオス人民民主共和国という 一党独裁の社会主義政権の下では、革新的な変化は今のところ期待できない。
とはいえ、ラオスは今やアセアンの一員であり、いや応なしにグローバル化の影響を受け始めている。ODAや国連機関、ボランティア団体の支援は、少しづつアセアンの中の最貧国 ラオスを変えていくことだろう。私たちの訪れたプロジェクトではJICA、国連を問わず良い仕事をしている。これら支援団体が救助活動において調整を計り、政府が将来に対するビジョン提示すれば一層の飛躍が期待できるだろう。この国において必要不可欠なものは人々の自覚と自立の精神である。そのため地域社会で活躍する現地NGOの出現が待たれる。
【おわりに】
NPO2050の視察の後、毎回その会員に向けての報告会が開かれ参加者は現地での経験や感想を述べ合う。
それぞれたった8日間の旅ではあったが、北谷氏とNGO 2050が現地の人脈を利用して密度の濃い視察の日程を組まれたことを改めて有難く思う。
JICAや国連機関で働く人々、NGOの方々の献身的な働きに頭が下がると同時に、わが国日本から若い男女が国際貢献の分野に参加し、たくましく、かつきめ細かく働いていることに感激する。日本からの支援で建てられた病院、診療所、贈られた医療機器、日本人の専門家、日本で研修を受けたという病院スタッフに会うのも嬉しい。
それにつけても心配なのはこうしたNPOで働く人達の帰国後の就職である。中途採用する慣習のない日本の企業が、このように国際的に活動してきた優秀な人材を、今後ぜひ積極的に活用してほしいと思う。
貧しい人々の生活を向上させ、貧困を2015年までに半減させるという国連MDG (ミレニアムディベロプメントゴール)計画に日本が、国として人として積極的にかかわることの大切さを改めて実感した。しかしバブル崩壊後、わが国経済が低迷する中、ODA予算が毎年減少している。ごく一部だとは信じたいが、他国にかかわるより、まず自分達のことを、という国民感情もある。私としては、より貧しい国々を支援するODAは、 日本人にとっては平和への道であり、究極の人間の安全保障だと信じている。特にきめ細かい顔のみえる援助として、草の根無償を通じての支援を拡大することの意義を、私の アジアの貧しい国々への旅を通じて痛感している。
短くハードなスケジュールであったが、少なくとも半日、あるいは一日、それぞれの国で歴史、文化遺産にふれることが出来たのも喜びであった。
ベトナムの古都フェ。ネパールでの釈迦(しゃか)生誕地ルンビニ訪問、カンボジア王朝のアンコールワットとアンコールトム、ミャンマーではパコダが2000以上残っているバガンの仏教遺跡とヤンゴン市の黄金に輝く早朝のシュエーダゴンパゴダ、そしてラオスでは最近世界遺産に指定されたばかりのワットプーなどを訪れることができた。また各地で人々が集うマーケットでの買い物も楽しかった。
日本のかすり織りの源流はインドシナ半島ではないかと思われるほど、それぞれの国ではすばらしい布地を織っていた。アジアを身近に感じる瞬間である。